金光教案内
教祖生神金光大神様は、文化11年(1814年)現在の岡山県金光町に、一農家香取十平・しもの二男として生まれました。十二歳にして農家の川手家に養子に入り、一生懸命農業に励み、経済的には繁栄されましたが、五人の家族がつぎつぎになくなり、そのうえ農家にとって家族同様ともいうべき買い丑を二頭もなくすという苦難に出逢われました。そして、四十二歳の時、ご自身も九死に一生の大病にかかられますが、そのとき教祖は、自分のどこかに、神様に対して行き届かないところが有るからに違いないと、ひたすらお詫びをしぬかれました。その教祖様の実意な態度に、人間のたす借りを願ってやまない神様が感応され、人助けのはたらきが現されることになり、そこから、教祖様はいっそう強く神様に心をかたむけ、日常生活の中で、信心を深めていかれました。
四十六歳(安政六年-1859年)の時、神様から「難儀な氏子を取り次ぎ助けてやってくれ」とのお頼みのままに家業を止められ、幕末から明治にかけての変革期の中で、難儀に苦しむ多くの人々を助け導く御用に、身を捧げられました。教祖は、一人ひとりの願いや苦しみをつぶさに聞き取って、神様に祈り、神と人とのかかわりを懇切に教え、あらゆる生活の営みに神様のはたらきを現す生き方を教えられました。このようにして、神と人を結ぶ「取次」の道が始まり、神も人も立ち行く世界が開かれていったのです。教祖は後に神様から、「生神金光大神」という神号を頂かれ、人間の助かり、世界の助かりを祈り続けられながら、七十歳(明治16年)で現世の取次を終えられました。
この生神ということについて、教祖は「生神とは神が生まれることであり、難儀な人を助ける時、そこに神が生まれるのである。だれでも生神の働きを現すことができる」と教えられています。