なぜ信心するのか

なぜ信心するのか

なぜ信心するのか

 信心は、人の生き死にを通して必要なものです。
「宗教、信心なくても人は生きていける」という人がいます。実際、そのように生活している人は沢山います。
 目に見えるものは信じるが、目に見えないものは信じない、と考えるからでしょうか。しかし、人生は人への愛や思いやりや真心などといった目に見えないものや、天地の間の目に見えない様々なはたらきがあって、成り立っているのです。
 人が本当に仕合わせのみを得、みながともにしあわせになる世界を生み出すためには、こうした目に見えないものも大切にしていかなければなりません。
 とりわけ、あたりまえと思って忘れてしまっている天地のはたらきを感じ、天地と共に生きていく信心という営みが、豊かな人生を生み出すのです。

いのちの成り立ち

 私たちは今、この瞬間、どのようにして生きているのでしょう。
 息を吸い、吐く。心臓のトク、トク、という鼓動。自分のいのちを支えているこれらのはたらきが、無意識のうちになされています。そこにはどんな力がはたらいているのでしょうか。いのちの営みや誕生には、人間の力の及ばない不思議なはたらきがあります。
 食物一つとってみても、田畑等を耕しお世話することはできても、人間の力だけで作りだしたものなど、何一つありません。
 人間のいのちと生活とは、自分たちの思いだけでなく、それを越えた、目には見えないけれども人間をはじめ万物を生かそうとする大いなる意志と、確かなるはたらきによって、営まれています。人間だけではなく万物も同様のはたらきを受けているのです。その大いなる意志とはたらきを、金光教では「天地金乃神様」と称え仰いでいます。そして、天地金乃神様のはたらきが現れる場が「天地(てんち)」なのです。
 人間は、天地金乃神様から、たましいと肉体とを授けられ、この世に生まれているのです。

天地から離れて生きている人間

 この天地に大いなる意志とはたらきとがあることに気付き、それに対して、畏敬と感謝の心を持て生きている人は少なくなってきています。現代のように科学技術が発達し便利な世の中になってくると、世界のすべてのことは、人間の力で創造し支配しているかと思いがちだからです。私たち人下は、天地によっていかされているのに、そのことに気付かなくなっているのです。
 この天地自然の恩恵を忘れた「自分の力だけで何でもできている」という、おごり高ぶった心が、多くの不幸を生みだしています。
日常の一つひとつが自分の思い通りにならないことに対する不平不満、将来への不安、心身の紡機、家庭の不和、仕事の行き詰まり、果ては環境破壊、差別、戦争に至るまでのさまざまな問題は、人間が天地から離れ、天地とのきずなを見失っていることから、生じているのです。

天地とのきずなを取り戻す

 

 人は、だれでもしあわせになりたと願っています。そのしあわせな生活を得るためには、天地とのきずなを取りも出さなければなりません。
 金光教は、天地から離れた人々が再びきずなを取り戻し、天地と人とがともに生きるあり方、すなわち神と人とがあいよかけよで立ち行く世界を実現したいとの、天地金乃神様の願いを受けられた教祖生神金光大神様によって、この世に出現しました。
 金光教は、助かりたいとの人の願いを神に、助かって欲しいとの神の願いを人に伝える「生神金光大神取次」によって、人間は天地のなかで生かされて生きている存在であるという「天地の道理」を世界に伝え、人々を救い助けます。
 私たちは、生神金光大神取次によって、天地とのきずなを取り戻すことはできるようになるのです。

神様から願われている私たち

 神様は、いのちを授けた親として、天地とのきずなを見失い、悩み苦しんでいる人間に、何としてでも助かってもらいたいと願っておられます。
 信心する人は、生神金光大神取次を頂き、天地の道理を知り、み教えを実践することによって、天地とのきずなを回復し、自身のしあわせへの道を開くことができます。しかし、同じ神の氏子でありながら、世界にはまだ多く人々が、迷い苦しみのかなで生活しています。
ですから、神様は信心する私たちに、天地の道理を人に伝え、より多くの人を助けるはたらきを担ってもらいたい、世界の人々が互いに助け合いながら、しあわせになっていくようなはたらきをしてもらいたいと願っておられます。

神様のはたらきを現すことができる私たち

 教祖様は、天地金乃神様から「生神金光大神」としてこの世に差し向けられ、多くの人々を救い助けられました。教祖様は、ご自身だけでなく、だれでも同じはたらきを現すことができるとおっしゃっています。
 それは、人はみな神様から神心(神の分けみたま)を分け与えられていて、この世に生まれてきているからです。例えば、神様への感謝の心が生まれたとき、苦難にであっている人を見てかわいそうにと思い、何とかしてあげたいという心が生まれたとき、私たちのうちにある神心がめざめ、はたらきだします。このことを金光教では、神が生まれるといい、このはたらきを現す人を「生神(いきがみ)」といいます。この生神のはたらきは、他の人を助け、自らを救う力にもなります。
 人間はだれもが、生神のはたらきを現し、他の人をも助けていくという、尊い氏名を神様から託されているのです。

私たちの信心

 教祖様はすべての人間は、等しく神心を与えられて、天地の間に生かされている神のいとし子であり、神と人間とは、人間あっての神、神あっての人間という「あいよかけよ」の関係にあり、その関係は、人間と人間、人間と万物との間にも生みだしていかなければならないとお示しくださいました。
 私たちは、生神金光大神取次を頂き、神様との関係を確かなものとし、神様の願いである人を助けていくという生き方、すなわち、神様のおかげのなかでいかされている喜びを確かめ、神のいとし子としての自覚を深め、すべての人の助かりと立ち行きを願う生き方を求めていきます。
 こうした生き方を進め、神と人とがともに助かり立ち行く世界を生みだすことが、私たちの信心のめざすところなのです。

 

*信者必携「今月今日」より引用