信心生活 

信心生活の道(生活の中でのとらえ方、考え方)

 

 朝の祈り、参拝 

 

 朝、めざめたとき、新しい人迎えられたことを心の中でお礼申し、お世話になった神具にもお礼をします。そして御神前に向かって拝礼をし、睡眠の恵みを頂き、疲れをとることができたこと、就寝中もお守りいただいたことのお礼を申し上げます。

 このように申しますと「はっ、えっ、?」と思われるかたが多いのですが、実はこの寝て起きるというあたりまえの出来事がどれ程おかげを頂いてこそできていることを普段考えたり見つめたことがないからそう考えてしますのです。
 病気して体の調子が悪い時は寝ることによって体を休め体の調子が整っているわけです。寝ている間にどんな災難がいつどのように起こるか分からないなかで、今日も無事起きることができたことは大変ありがたいことです。また、無事寝ることができるということ自体がどれだけ有難いことと思えますでしょうか。
 精神が不安定ですと寝付くこともできない、経済に困っていると暖かい布団で寝ることもできない、考えればありがたいことだらけのうえで無事寝て起きることができた、このことをありがたいと思わなければ申し訳ないからその恵みにお礼させて貰うことが道理そのものであるからです。
 そして今日も一日、色々の人やものとともにお世話になりつつ、元気にそれぞれの勤めにお使いいただけるようお願いいたします。そして今日も一日元気で明るく楽しく嬉しく、有難い最高の一日を送れるよう清らかな気持ちをもたせていただきましょう。
 教会へ朝参りができる方は、是非教会の朝の御祈念に参拝いたしましょう。お取次をいただき、勢祈念に参加させていただきみ教えを頂いて、改まった心で一日を送らせていただける最良の道筋であります。

 ◆ 食事 

 食前訓を奉唱

 

 食事はわたしたちのいのちを支える、欠くことのできない営みです。食物はすべて天地の恵みによって生まれたものであり、いのちあるものです。食事と始まりと終わりには、天地のはたらきと一つひとつの食材のいのち、そして、食物を作る人たちなどの、私たちの知らないところでお世話下さった人たちへの感謝の心をこめて食前訓、食後訓を唱え、おいしく、楽しくありがたく頂きます。さらに、いのちあるものを食べて、わがいのちに替えるのですから、そのいのちを生かしていくようにこころがげて頂きましょう。

  [食前訓]
  食物はみな、人のいのちのために天地の神の造り与えたもうものぞ。何を飲むにも食べるにも、ありがたくいただく心を忘れなよ。

    [食後訓]
  体の丈夫を願え。体を作れ。何事も体がもとなり。

 料理をする時は、食材のいのちを大切に、食べる人が喜んでいただけるように祈りをこめて調理しましょう。
 
 ◆ 排泄 

 大小便もお礼のきもちをこめてさせていただく

 

 食事と共に排泄も大切な事柄です。このはたらきが無ければ、私たちは健康を保てません。そのはたらきが十全になされていることに感謝の心をこめながら、排便、排尿させていただきましょう。

  排泄物は、いのちの糧である栄養を体内まではこんでくれたものであり、健康の状態を締める便りでもあり、そして、いつかは大地に還り、新たないのちを育てる糧となるものだからです。
 

 ◆ 掃除、洗濯、ゴミ処理 
 天地へのお礼の心をもち、実意をこめて取り組む

 

 掃除、洗濯、ゴミの始末などの家事は、人が健康で快適な生活を送る上で、欠かせない営みであり、年齢、性別に関係なく、本来、人であればだれでもしなければならない事柄です。

 面倒なこと、価値の低い仕事などと考えることは、神様と、その仕事をして下さる人へのご無礼となります。家財、衣類、食材をはじめ、これまで用立ってくれ、お世話になったものたちへの感謝の心をこめて、したいものです。

 

 ◆ 育児 
 子育ては、心づくりから 

 

 親は、だれでもわが子が立派に成長することを願うものです。そのためにも幼児期の知的教育や技術習得も大切ですが、何よりも人としての心を育てることが第一です。人はみな、神様同様のいつくしみにあふれた心を頂いています。この、人を思いやる心をはぐくんでいくことが、育児の上で大切なことなのです。
  また、親は自らの心を磨いてこそ、子供はしっかり育っていきます。
  子供は、親の所有物ではなく、神様から預かった神のいとし子です。子育ては、かみのいとし子を育てさせていただく大切なつとめなのです。親としての立場から自分の考えを子どもに押しつけるのではなく、子どもの個性や能力を尊重しての育児につとめたいものです。
  育児は、親自身が子どもとともに育つことである、との自覚が大切です。

 

 ◆ 欲 
 欲は、大切なものである

 

 欲がなければ、人は生きていくことができません。食欲、性欲、物欲、みな生きていくために必要なものです。
  しかし、欲望を利己的、自己中心的に満たそうとする我欲にとらわれ、己を律することを忘れると、人を傷つけ迷惑をかけるだけでなく、ついには自分を滅ぼすことになります。
 そうならないためにも、信心に基づく欲を頂きたいものです。それは、われと人ともに生かし合い、支え合い、助け合っていこうという欲です。この欲こそが、実りある人生を実現するのです。
 
 ◆ 恋愛 
  人が人なくしていきられないことを、発見する

 

 人を恋し、人を愛することは、人としてすばらいいことです。
恋愛は、人生の喜びを開く一つの鍵です。自分の人格を高め、相手の人格を認めていくことです。恋愛は、人が人なくして、その人生を送れないことを教えてくれます。ともに生きていくことを謙虚に学ぶ、よいきっかけでもあり、その出会いを喜ぶことが大切です。
  また、恋愛では、素直、ありのままの自分を発見することができます。ときに、自分をかざったり、背伸びしたりすることもあるでしょうが、それもまた、偽らざる本心の現れであるとも言えます。
 

 ◆ 結婚、夫婦 
  お互いが、相手を思いやる
  

 結婚は、神様から頂いた縁です。良縁となっていくよう願うと同時に、良縁にしていく努力がいります。
  結婚は、家と家との結びつきであるより、当人同士の結びつきです。それゆえ、お互いに人として成長し合っていこうとする努力が求められます。
  結婚により夫婦となり、お互いを心から信頼し尊敬するようでありたいものです。
  信心は、私たちに、夫婦円満の秘訣を教えています。それは、お互いが神のいとし子同士として大切にし合うことです。
 そこから相手の立場に立って物事をみていくこともでき、お互いに喜びも悲しみもともに担い合い、分かち合う夫婦となっていくことができます。
 
 ◆ お金 

 上手なお金との付き合い方を

 

 お金は、人間が生きる上に欠かせない大切なものです。衣食住はもとより、税金、医療、情報、娯楽など、生きる上で必要な多くのものを、お金によって得ることができるからです。しかし、お金を人生の追求すべきすべてと考えると、お金に振り回され、自分を見失うことにもなります。お金が大切なものであるということと、お金がすべてではないということと、この微妙な違いをしっかりと見極めて、お金との上手な付き合い方をしたいものです。
 それには、無駄のない使い方に心がけるとともに、自分の欲望を満足させるためだけの利己的な使い方をつつしみ、人の助かりにつながるようにとの祈りをもって、お金を大切に扱うように心がけることです。
 また、お金に困っているときには、今までの使い方に問題がなかったかなど、自身のお金に対するあり方を省みることも必要です。
 お金を使うときには、その背後にある、天地の恵みや幾多の方々のお世話に対しての感謝の気持ちをこめることが大切です。
 お金の多い少ないが人間の価値を決定するすべてではありません。人の真心や愛情など、お金では換算できないものが人選には数多くあることを知った上で、人の心に喜びが生まれ、われ人ともに助かっていくようなお金の使い方をしたいものです。
 
 ◆ 住居、建築 
 神様を、家の中心におまつり

 

 どのような住居でも、そこに住まわせていただいて、雨露をしのがせていただくのですから、家に対して感謝の心をもちたいものです。
 マイホームにしても、借家にしても、家のもっとも良いと思われる場所に神様をおまつりし、神様とともに生活を営んでいくことが大切です。
 家を建てる時には、神様にお願いして建たせていただきます。建築に携わる人たちの安全を祈るとともに、神様のお土地の上に建たせていただくのですから、神様にお願い申し、お許しを頂いて、お礼を申しながら、お土地を使わせていただきます。
  家相や日柄方位といわれるもに惑わされることは、少しもありません。
 
 ◆ 家族 
 祈り合う家族になる
 

 私たち信奉者の家族は、世の中のお役に立つよう、神様から願われています。それにはまず、家族がお互いに祈り合う家族になるということです。
 親子、夫婦、兄弟姉妹、家族は一つのまとまりですが、一人ひとりいろいろな悩みもあり、ときには、わがままもでてきます。それだけに、お互いを認め合い、許し合い、支え合って、明るくうち解け合っていくように、家族みなが神様に祈り願っていくことが必要です。そして、お互いが大切な一人ひとりであることを認識し、信頼できる家族関係を祈りのなかで築き上げていきたいものです。
 さらに、ご神願成就のお役に立つことが、信奉者家族にかけたれた願いです。
 
 ◆ 老い 
 徳を積んで人のお役に立つ

 

 「老い」は、えてしてマイナスに考えられがちです。しかし、神様のおかげを受けとおしてこそ、老いることもできるのです。
 老いていくと、気力も体力も記憶力も次第に衰えていきますが、実は老いは自分の人生を最高に充実させて生きる時期なのです。長い人生体験と知恵を、生かして生きるのです。こうした生き方を進めることが、徳を積むことになるのです。徳を積むことは、自分のためだけでなく、世と人々のためにいきていくことであり、そこに自分の信心の
価値を現すことができるのです。
 豊富な体験で得た知識を基に、人に話したり、若い人たちの相談に乗ったり、ここまでかかわってきた人たちのことを祈ったりと、老いてからでなくてはできないこともたくさんあり、老いてこそ理解し、見えてくることもあるのです。
 徳を積み、美しく輝いて、生きていくのが、老いのときなのです。
 今あるいのちを日々磨きながら、前向きに生きることです。
 

 ◆ 難 
 難を担い得る信心の力を頂く

 

 人生の日々には、思いもかけないことが起こります。苦しく、辛く、自分にとって不都合なことに、多くであいます。
 そんなとき、だれもがとまどったり、うろたえたり、不運であることを嘆くでしょう。しかし、いくら嘆いても、何の解決にもなりません。
 そんなとき、信心という器で、出来事を受け止めていくのです。何から逃げ出さず、前向きに立ち向かい、抱えていく力を頂いていかなければなりません。
 いつでも、どこでも、どんな場合でも、神様とともに私たちはあるのです。
 どんな難でも、神様がすでに一緒に抱えてくださっており、つらい思いをすでいわかってくださっています。どんな問題も取次を頂き、神様に祈りながら、神様とともみ人生を歩みたいものです。
 
 ◆ 死 
 かぎりあるいのちを、生ききってこそ

 

 死ぬことも、神様のおかげのなかでの出来事です、人は、生きている間はもとより、死んでみたまとなっても神様のおかげを受け続けていくものです。ですから、いたずらに死を恐れたり、忌み嫌う必要はありません。
 死の問題があることによって、今の自分の生をはたして生き切っているか、また、自分のいのちにかけられた神様の願いにこたえようとしているかが問われます。その問いのこたえようとすることによって、人生が充実してくるのです。 
 生かされている自分を、生かして生き、世と人々に少しでもお役に立つことができていけば、神様の心にかない、自らも充足でき、安心な人生の終わりを迎えることになります。人の子ことにふれる真実のものを周囲の人に与えていくことで、人選は生死を超えて生き続けていくことができるのです。
 
 ◆ 日柄方角、運勢、占い 
 日柄方角や運勢、占いにとらわれない

 

 いたずらに方角や日柄を気にすることなく、何事も神様におねがいして、させて頂く姿勢が大切です。
 人間はみな、どこにあっても神様のおはたらきを受け、日々恵みを受けて天地のなかに生かされているのですから、大切なことは、神様にお断りを申して、けじめをつけ、神様におすがり申して御都合を頂くということなのです。
 世の中にはびこる運命判断や運勢占いに惑わされることなく、起きてくるすべての事柄のなかに、私たちを慈しんでやまない神様の深い思いを感じ取れるようにつとめます。
 神様に祈ることで、事柄にこめられた神様の意図を理解し、すべての事柄をよいように転換していく信心を進め、その確かな生き方を周囲の人々にも伝えられるように努力します。

 ◆ 厄年 

 お役に立つとしとして人生を切り開く

 

 一般に厄年は、病気や災難などに見舞われる年だと言われています。しかし金光教では、やく年は「厄年」ではなく、「役年」と教えています。たとえば、男性の四十二歳の厄年と言われる年代になると、体に変調をきたす時期に入ります。
 しかし一方で、社会でも家庭でも、一人の人間として責任のある立場になりますから、家庭の内意がで大きなお役に立つ年代になります。
 ですから、私たちはそういう年代を迎えたら、まず最初に、それまでの人生を送ってくることができたお礼を神様に申し上げます。そして、災いを恐れて厄払いを願うのではなく、さらに一歩進めて、お役に立たせてくださいという祈りをもって、喜んで遺産で元気な心ですごします。
 このように、常に前向きに取り組み、よいことも、そうでないことも、すべてを私の一生の大切な中身として受け止めていきます。同時に、神様の子として、この世の中に生かされていることの喜びと感謝をもって、人生を切り開いていきます。