里庄教会のあゆみ

里庄教会のあゆみ

 

出生と結婚

 

 金光教里庄教会は初代駒口幸平師によって始まる。

 明治十二年五月二十二日に幸平師は、小田郡新賀の安藤元八郎三男として誕生する。その後、明治三十四年に笠岡の殿川町に住む駒口安治郎・ツネ夫妻の養子に迎えられ、長女エイと結婚、専心商売に力を入れ、家庭にあっては、二男の良き父となり、日々を忙しく送っていた。

 

商売

 
 その駒口家は江戸時代から、「鞆安」という屋号で雑穀を主に取り扱う商売を営んでおり、幕末から明治、大正にかけて雑穀のみならず米穀商として、また井笠鉄道の開設、あるいは山陽練乳などの事業に出資し、笠岡で一,二を争うほどに手広い商売をしていた。
 ところが、子供が幼くして死ぬ、あるいは主人が早世するという運命を背負っており、その結果、代々女系の強い家柄となっていたが、初代幸平師も駒口家に婿養子に迎えられたが、港で女だてらに沖仲仕を取り仕切り、米の出荷を取り仕切る義母との折り合いが悪くなることがあり、大変苦労したようであった。加えて、大正三年の第一次大戦によって物価が高騰し、米穀商として米相場に一喜一憂する厳しい経済状況に遭遇することになった。
 
初代大先生とのご縁、笠岡時代のお広前

 

 そのような折、大正二年の教祖三十年祭を迎える前年に金光教玉水教会の控所が霊地にでき、それまで金光様には昔からお参りはされていたものの、控所を任されていた山下ユキ氏が初代幸平師の叔母に当たることから、ユキ氏のお手引きによりご縁をいただき、玉水教会初代湯川安太郎大先生の御取次をいただくことになった。
 玉水の初代大先生の厳しい教導を受け、信心と稼業とは一つとの教えのまま、昼は稼業に、夜は御本部参拝、教祖奥津城での御祈念にと身を粉にし、全身全霊を打ち込む毎日を送るようになった。
 

 また、その頃、駒口家にある大きな蔵に何をおいても腐る所があり、そのことを玉水初代大先生にお伺いすると、「そら、腐るのが当たり前や、成仏しとらん霊がおる。今度お国参りの時祓うてあげる」とおっしゃり、御祈念と大麻行事をして下さり、それ以降は何を積んでも腐らなくなったという蔵があった。その蔵を出たところに井戸があり、その井戸端に沿った部屋のお床に小さなお社があり、そこが里庄教会のはしり、元祖といえる。

  
里庄教会のルーツ 

 

 その小さなお社であっても、なかなか恐ろしい程のおかげを皆いただかれていた。そのような中で、いよいよさらに信心が進む契機となったのが大正七年の米騒動、そして大正九年の米価の大暴落であった。この大暴落で八万円(約六億五千万円)の損失を出し、この経済的危機により、ますます信心に打ち込むようになった。親族からの融資の話もあったが、玉水初代大先生に御取次を頂くと、「他人からお金を借りてはならぬ」とのお言葉で、負債をかかえて只々神様にお縋りし、一生懸命に御祈念をし信心を毎日進め、昼は稼業、夜は本部に参拝し、雨の日も雪の日も教祖奥津城で長時間にわたる御祈念をし、また、大阪の玉水教会へ足を運び、全身全霊その身を打ち込んで信心を進めていった。
 

信心の転換期

 

 信心が進むにつれ、初めは負債返済の「お願い」する信心であったが、神様を使うのではなく、神様に使っていただく、あるいは神様にご奉仕申し上げる「誠を尽くす」信心へと大きく転換していった。
 そして、大正十二年三月に玉水教会の教徒に改式し、誠を尽くし、神様にご奉仕申し上げ、信心と稼業とは一つとのおかげをいただいていくこととなった。

 

義夫師の結婚、参拝者で商売が困難に

 

 そのような中で、大正十五年、幸平師の長男義夫師が玉水教会初代大先生の仲人のもと、広島の津田家より萩枝師を妻として迎え入れ、また斎主として仕えられ結婚することになった。

 

 その頃から、人が徐々に尋ねて来るようになっていた。商売をしている中、羽織を着替えて、奥のご神殿へ向かい、丁寧にお話をする。仕事へ戻ると、また「助けてください」と参ってくる、朝、昼、夕方、晩と次々に、「ご神殿を拝ませて下さい」「参らせて下さい」「話を聞かせて下さい」といつの間にか人で一杯になり、入れなくては相済まんということで、二階の広い部屋にお社を移動し、御祈念することになった。
 それでもすぐ一杯になり、お話を皆座って聞いてもらえないような状態で、これではもう商売ができないということになった。
 そこで、玉水の初代の勧めもあり、布教をさせて頂こうということになった。

 

布教・里庄へ 三代金光様のお言葉

 

 ところが、笠岡での布教が難しいと言うこともあり、三代金光様にお届けすると「笠岡の隣、里庄の駅から東に一軒の空き家があるから、それを買い求めて布教なさったら結構です」とのお言葉をいただき、昭和六年の暮れに、笠岡での米穀商をたたみ、いよいよ里庄に引っ越すことになり、昭和七年一月十日奉斎式が執り行われ、里庄での布教が始まった。
 しかし、さびしい町の里庄での布教を反対したり、不安の思いを向けられる方も沢山ある中、三代金光様が仰ってくださった「おかげに遠慮はいりません」「上り下りの列車の氏子をお引き寄せ頂かれましたら結構です」との深い思し召しのままに、親先生、金光様、天地の親神様を頼りに一筋に御用に勤められていった。

 

初代幸平師の帰幽、遺言

 
 布教当初から初代幸平師はお徳を頂いておられたので、参拝者は月ごとに増加し、毎夜広前は人が入りきれずに、外まで一杯になっていた。そのような中で、翌、昭和八年、初代幸平師は「布教所の南側の土地に二年したら教会が建ちます」と申して、その年の十一月十六日に神様のみもとに神上がられた。
 

二代義夫師の燃ゆるご信心

 

 それから二代親先生・義夫師の時代となる。昭和九年五月一日に本部より布教認可を受け、父の幸平師のお徳の中で、とにかく努力と熱烈なバイタリティーに富んだ性格をもって、朝四時から御結界に出られると、一度の食事以外下がることなく、夜中の一時二時まで御祈念される毎日で、二代義夫師の信心はさらに進み、まこと初代幸平師が申したとおり二年後の昭和十年に教会が建ち、昭和十年五月一日教会が完成し、教会長に就任し、五月十日新教会所建築落成式にあわせて開教祭が仕えられた。

 

ご比礼


 三代金光様、玉水初代大先生、先代幸平先生の御祈念と御神徳に支えられ二代義夫師の血を吐くような御祈念、教導の中で教会のご比礼がたち、西から東から、北から南から、どんどんと参拝者が増え、昭和二十九年には第一信心道場、昭和三十六年に第二信心道場を建築し、遠隔地からの参拝者の便宜をはかるようにした。さらに列車、バスでの団体参拝者のために昭和四十年に信奉者控え所、干瓜バス駐車場も整備された。昭和四十二年十月十八日に二代義夫師が帰幽なされても、初代幸平師、二代義夫師の遺されたお徳が広前に充満しており、その神徳は変わることなく、今日まで里庄教会の広前に受け継がれている。